内田樹『街場の文体論』×村岡花子とアン


今回も前回に続いて、外国語の学習について考えさせられる1冊『街場の文体論』を紹介します。

 

今回は、どうしてこんなにも私たち日本人は外国語ができないでしょうか。それについては内田樹先生に聞いてみましょう。

 

以下引用します。

●引用はじめ●

外国語を学ぶとき、君たちを英語学習に動機づけようとすると、「英語ができると10億人とコミュニケーションできますよ」という方向に行ってしまう。でも「自分が言いたいこと」を外国語で言いましょうという動機づけではほんとうは外国語は学べないんです。方向が逆だからです。

 

外国語学習というのは、本来、自分の種族には理解できない概念や、存在しない感情、知らない世界の見方を、他の言語集団から学ぶことなんです。

・・・

理解できない言葉、自分の身体のなかに対応物がないような概念や感情にさらされること、それが外国語を学ぶことの最良の意義だと僕は思います。

 

浴びるように「異語」にさらされているうちに、あるとき母語の語彙になく、その外国語にしか存在しない語に自分の身体が同期する瞬間が訪れる。

 

それは、ある意味で、足元が崩れるような経験です。

 

自分が生まれてからずっとそこに閉じ込められていた「種族の思想」の檻の壁に亀裂が入って、そこから味わったことのない感触の「風」が吹き込んでくる。

 

そういう生成的な経験なんです。

 

外国語の習得というのは、その「一瞬の涼風」を経験するためのものだと僕は思います。

 

「英語ができると就職に有利」といった「手持ち」の理由で外国語を学ぶ人たちは、どれほど語彙が増えても、発音がよくなっても、自分の檻から出ることができない。●引用終わり●

 

 

言いたいことや考えがあって言語化すると私たちは考えがちなんですけど、言語があって思考あるという順番なんです。これは言語系の本にはよく書いてあります。

 

だから、外国の言語を学ぶことは、思考が変わるということなんですよね。そのために外国語を学ぶ。

 

そういえば、この間のNHK連続テレビ小説「花子とアン」で村岡花子も外国語についてこう言っていました。

 

「外国の言葉を知るということは心の窓を開くということです」

ちなみに、花子とアンは今日で最終回でした。