「勉強ができない」という事実と「愚かな人間だ」という事実は、つなげなくても勉強はできる



最近かまなびに見学に来てくれる方が多いです。


現在塾に通っているものの、かまなびが良さそうだと足を運んでくれます。


先日見学に来られた親子は、子どものダメなところを塾からたくさん聞かされ、このままどうにもならないのだろうかと親子共々落ち込んでしまっているという状態でした。


確かに、子どもが勉強ができないのは、ご家庭での教育がなっていなかったのであり、したがって子どもとその保護者に全責任があるという塾の言い分もわからなくはありません。


ただ、それらを指摘されながら勉強し続けるのは、難しくありませんか。


「勉強ができない」のと「愚かな人間だ」という事実をつきつけられている状態に耐えられる強い人間がどれだけいるのでしょうか。実際に、耐えられなくなってかまなびへやってくる親子が少なくないのです。


私はこの2つの事実は切り離して考えた方が気持ちよく勉強ができるのではないかと考えています。


先日のブログでも書きましたが、「人間力」など「○○力」みたいにつなげて考えている塾は、これら2つの事実をつなげて考えてしまう傾向がありますね。だからどうしても説教臭いことや精神論の話が話題の中心になって、「だからお前はダメなんだ」という話になりやすいのでしょう。




遊ぶ時間を削って、勉強ができなくて落ち込んでいるときに、高いお金を払って塾に通うのです。親子共々、塾に通う時点でかなり落ち込んでいる状態のはずです。



塾としては、せめて「愚かな人間だ」という事実は責めないであげたいと思います。


その事実をつなげてもつなげなくても勉強はできるからです。



例えば、「ゲームに夢中で勉強ができず成績が悪くなってしまった」「スマホ依存で勉強ができなくなってしまった」などの事例があったとしましょう。


そういうときに「ゲーム・スマホのせいで勉強ができない」のですね。では、その「ゲーム悪」「スマホ悪」とどうやって一緒に戦うかという物語を採用してみる。依存してしまった事実を取り上げて人格的な非難はしない。そんなことは本人も親御さんも重々承知しているのですから。


「なんであんなくだらないことをして1日を過ごしてしまったんだろう」こんな経験誰でもあると思います。そういうとき当の本人は、「自分の愚かさ」を感じて既に落ち込んでいるのです。改めて人格的に非難されては落ち込む一方でしょう。


そもそも「できない・自信がないもの」をやらされるのは苦痛ですよね。だから人格的な問題を責められながら勉強するより、「一緒に戦う」という物語を採用した方が嫌なことでも長く勉強が続けられると思います。なんだかわからないけど、勉強が苦ではなくなった。自分の愚かさはいくらかマシになった。こんな感じではダメなのでしょうか。


人間は弱いのですから、「人間はこうあるべきだという原理主義」を塾で貫いてしまうと、なんだか息が詰まってしまいそうです。