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塾のチラシで、またこんな文章をみかけました。
以前のブログでも書きましたけど、「○○力」ということについて語る塾屋の人が多いですよね。
でも、こういう「○○力」を語り出す塾ほど、「○○力」はつかないのだろうと思います。
この文章でも「本当の力とは」とご立派なことをいっていますが、「点数を高める」というチープな着地点なんですよね。「本当の力」とは「点数化できない力」のはずでしょう。点数がつくということは「部分的な力」でしかないのです。それが、「生きる力」にまで結びつけてしまうというのは、どうなんでしょうか。
「学力」とは中学2年生の教育出版の教科書によると「学ぶ力」であり「学ぶことができる力」「学べる力」と捉えるべきものだとされています。「数値として示して、他人と比較したり、順位をつけたりするものではない」と書かれています。(教育出版「中学国語2 伝え合う言葉 内田樹・学ぶ力より」P130~)
進学塾などの学習塾は「○○力」について語らない方がいい。私はそう思います。「点数が取れるように」と日々生徒をフォローはしますけど、それが生きるための本当の力とは思いませんし、「学力が上がった」などとは軽々しく言えないからです。あくまできっかけにすぎないのです。
では、なぜ塾屋の人たちは「○○の力がつく」というような誇大広告をしてしまうのか。むしろ私はそこに興味があります。
人間は誰しも理想の自分を持っています。「あんなこといいな。できたらいいな。」です。でもそれはうまくいっていないからそう考えるわけです。
そこでYD広告の出番です。「やればできる」と訴えるのです。
できる自分を想像することって楽しいですよね。現実じゃないから。生徒も保護者も「やればできる」「うちの子はやればできる」ということは最初から考えています。ここで塾が「やればできる子」を募集しているならば、両者の思いは一致します。思いが一致するということは親近感がわくということです。YDKを育てる塾にうちのYDKを入れたら…
心のどこかで誰しも思っているからこそ、こういう広告で「気づかされた」「私の気持ちをよくわかってくれている」と思って期待してしまうのでしょう。
ただ、ここで不幸が起きます。YDKがYDKのまま終わってしまうのです。塾をやめる時も言えますよね。「君はYDKだから、これからも頑張って」と。目標に届かなくても、全然成績が上がらなかったとしても使える。保護者としても不本意な結果でも、YDKを育てる塾がうちの子をYDKって言ってくれてるからうちの子はYDKだったんだ。と謎のYDK問答を無意識のうちに行って、なぜか納得してしまう。YDKって便利ですね。
やらないからここにいるのに、生徒・保護者・塾の誰もが過去を振り返っていません。希望ある未来しか見ていないのです。もちろん期待することは否定しません。でも塾の本当の仕事はここから「いかにやらせるか」だと思います。YDKをやらせないままにしておいたらYDKのままですからね。
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