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今年の本屋大賞に選ばれた宮下奈都さんの『羊と鋼の森』を読みました。宮下奈都さんは県立入試では頻出作家ですし、爽やかな読後感が得られるのでオススメの作家さんです。来年の入試には、いろんなところの入試で取り上げられそうだということもありますし、読書感想文などにいかがでしょうか。
今回は、最近たまたま取り上げていた「諦め」について書かれていたところが、為末大さんに通じるものがあったので引用してみます。
〜ここから引用〜
あきらめる。あきらめない
-それは、どちらかを選べるものなのか。選ぶのではなく選ばれてしまうものなのではないか。
由仁の視線が刺さる。
あきらめたくないと言うこの子
に、何もしてあげることができない受けとめきれないと思いながら、視線を外すこともできない。
「調律師になりたいです」
意表を突かれて言葉が出なかった。
でも、由仁の真剣な表情を見て思った。ピアノをあきらめることなんてないんじゃないか。
森の入口はどこにでもある。森の歩き方も、たぶんいくつもある。
調律師になる。間違いなくそれもピアノの森のひとつの歩き方だろう。ピアニストと調律師は、きっと同じ森を歩いている。森の中の、別々の道を。
〜ここまで引用〜
努力についても、為末大さんと同じようなことが書かれています。
〜ここから引用〜
調律を再開した日、佐倉さんが話してくれた。和音はピアノの練習をどれだけやっても
苦にならないらしい。
「いくら弾いても、ぜんぜん疲れないんですって」
佐倉さんはそう言って目を細めた。
「そんなに練習できるというのは、それだけで才能ですね」
柳さんが相槌を打っていた。ほんとうにそうだと思う。
和音が何かを我慢してピアノを弾くのではなく、努力をして
いるとも思わずに努力をしていることに意味があると思った。
努力していると思ってする努力は、元を取ろうとするから小さく収まってしまう。自分の頭で考えられる範囲内で回収しようとするから、努力は努力のままなのだ。
それを努力と思わずにできるから、想像を超えて可能性が広がっていくんだと思う。うらやましいくらいの潔さで、ピアノに向かう。ピアノに向かいながら、同時に、世界
と向かい合っている。
〜ここまで引用〜
「努力」と自分で考えてしまうと、それが限界になってしまうという指摘です。努力と思わないようなジャンルで勝負した方が勝ちやすいという当たり前のことに、なかなか僕たちは気がつけないんですよね。
勉強でも仕事でも「これだけやりました」みたいにやたらアピールする人がいるでしょう。
ホウレンソウの「報告」好きな人。
こういう人は努力してる自分に酔ってることがありますね。
そういう人は自分でリミットかけてますから、ブレイクスルーが起きにくいということはあると思いますね。
これは目標設定で参考になる発想です。
〜ここから引用〜
でも、少しずつ見えてきた。
音楽は競うものじゃない
だとしたら、調律師はもっとだ。
調律師の仕事は競うものから遠く離れた場所にあるはずだ。
目指すところがあるとしたら、
ひとつの場所ではなく、ひとつの状態なのではないか。
〜ここまで引用〜
目標って「合格」とかの一定のラインをクリアすることではなくて、「状態」のことを言うのではないかという指摘です。
一定のラインを目標に設定してしまうと、クリアしたあとが続かなくなってしまいます。受験や就活で燃え尽きて、そのあとが続かないのは、目標が「場所」になってしまっているなのかもしれませんね。
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